「ネタは意外とすぐそこにある」 〜ながはむ、絵本作家への挑戦〜
ブログを再開して半月ほど経過した現在、明らかにタイピングの速度が早くなっている。キーボードを一切見ずにタイプ出来るわけではないが、短期間でこんなに変化があるものなのかと驚いている。このウキウキとした気分を糧にこれからもブログを頑張っていこうと思う。
さて、ながはむは現時点で自作絵本第2作目の制作に入っている段階だ。本作は、主人公がはじめてのお買い物に行く「羊の家族」のお話。なるべく心温まる絵本に仕上げられるように精進したいところだ。コンセプトや起承転結の構想は出来上がっている。だが、まだ細かなシーンや演出の構想が練り上がっていない。作家として活動する上で、アイデアがなかなかまとまらない事案は初めてではないが、それでも常に苛立ちを覚えるほど悩ましいことには変わりない。
子供の頃から物語を創るのが好きで、その頃はただひたすら自分思いの創作を漫画にして表現してきた。子どもの頃というのは、まだ社会の常識や業界の知識なんて全然ない。それ故になんでも軽い気持ちで自由にやってのける。それでいてなぜか面白いので、やはり子どもの想像力は侮れない。僕自身、今になって自分が子供の頃に作った作品を見返してみると、改めて幼少期の自分の表現性にビビることがある。過去の自分から学ぶものは意外と多いのだ。
大人になるとどうだろう。大人の作品づくりは周りへの配慮や需要、期待する評判を考慮して、制作開始前からネタを厳しく吟味する。長い時間をかけ探し集めた何十何百というネタを並べてその中からたった一つを厳選し、作品内のほんの一部に組み込むのは、作家にとって普通のことだ。99.9%は没になるその「ネタ」を探し出すのも、かなりの労力を費やすものだ。さらにそんな苦労を何ヶ月も続けて生み出された一作がヒットするかどうかも一か八かだ。子どもの創作活動には無い重圧が、昔は純粋な想像力に溢れていた今の大人たちにのしかかっているのだ。
だが、これが一概に悪いことというわけではない。極限まで洗練された物語は、時代を超えて愛される大きな価値になりうる。最高品質のぶどうだけを使い熟成にも長期間を設けるドン・ペリニヨンのように、多大な手間と時間をかけたが故に傑作というものは出来上がる。そういう意味では、大人のやり方で生み出される作品のほうが、子どもの創作より面白いのかもしれない。多くの作家たちがこういうものを目指しているのではないだろうか。そうであれば、9割を捨てる覚悟で少しでも多くのネタを集めるのは大切なことだ。
それに一度集めたネタというのは、残しておけば使いまわしができる。今回使わなかったネタを次の作品で使ってみたり、そのネタが評判がよかったら同じものを何度も使うことも可能だ。適材適所、既存のネタを再活用することも良い作品を作る上で必要な手段だ。逆に、同じネタを過剰に使い回すと観る人を飽きさせてしまったり、次から次に新しいネタばかりを導入していると観る人を混乱させてしまう場合もある。ネタ探しとネタ作りは地道だが、ネタの活用もまた地道な調整が必要なのだ。
ネタは、必要になってから探し始めるのでは遅い。ネタとは、日頃から予めかき集めて、いざというときに放出するのがより効率的だ。そのためにメモなどの記録媒体を欠かさない。普段の日常生活や仕事、趣味、移動の道中などネタになるものはどこにでも転がっている。ときには費用と休暇を設けて、普段なら行くことのない県外、あるいは海外にまで足を運んで特別なネタを手に入れるのも良いだろう。主体的な物事でなくても、知り合いから話を聞いてみたり本を読んだりなど他者の経験も自分の作品作りに活かせるかもしれない。難しく考える必要は一切無い。ネタは意外とすぐそこにある。
僕はネタを探すにあたって、友人との会話に重点を置いている。盛り上がるトークもまたネタの宝庫だ。特に面白い友人がいる場合は、磨きのかかった貴重なネタが湧き出ることもある。直接会えないときはLINEのグループトークを活用したりして、思考を止めないためにも、とにかく会話を重要としている。また読書はもちろん、著名人のトーク番組を鑑賞したりして絵本に活用できそうな会話の要素を集めることも大事にしている。ネタの集め方は人それぞれだ。
ネタ探しは今も続いている。絵本の構想が終始完璧に出来上がるまではひたすらネタを練る。あとで後悔することが無いように慎重に進めている。何より楽しい感情を失わなければ、制作に支障をきたすことは無いと信じている。
そんな期待を込めて、絵本第2作目も最高の出来を目指したい所存である。
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